技術情報 アプリケーション トピックス 顕微 FTIR によるダイナミックな現象のその場観察 ─ 潤滑油膜の構造とトライボロジー特性 ─
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顕微 FTIR によるダイナミックな現象のその場観察 ─ 潤滑油膜の構造とトライボロジー特性 ─

顕微 FTIR によるダイナミックな現象のその場観察─ 潤滑油膜の構造とトライボロジー特性 ─

本記事は、森 誠之 先生(TSラボ、岩手大学名誉教授)のご寄稿による Jasco Report Vol.62 No.1『顕微 FTIR によるダイナミックな現象のその場観察 ─ 潤滑油膜の構造とトライボロジー特性 ─』から引用作成されています。

はじめに

自動車のエンジンやトランスミッション、軸受などにおける摩擦損失を減らすことで自動車の燃費を向上させることができる1), 2)。また、部品の摩耗を抑制することで、部品の耐久性ひいては自動車の耐久性と安全性を高めることができる。適切な潤滑により、エネルギー効率と耐久性・安全性を高めることができるのは、飛行機や新幹線車両など他の交通機関においても同様である。潤滑の効用は、工場における様々な工程でも、その効率化、耐久性、安全性に加えて製品の品質向上にも関わっている。このように、摩擦・摩耗を制御する潤滑に関する科学と技術分野をトライボロジーと呼んでいる。トライボロジーは、機械設計を受け持つ機械工学、材料設計を受け持つ材料工学、潤滑材料を受け持つ化学が関わる境界領域の技術分野である。

潤滑油を用いる潤滑機構は「流体潤滑」と「境界潤滑」に大別される3)。流体潤滑は、相対的に動く2つの面の間に油膜が形成される場合であり、固体接触がないため摩擦と摩耗を低く抑制できる。適度な粘度を持つ潤滑油が接触部の隙間に押し込まれることにより油膜が形成される(くさび効果)。摩擦の速度が遅いときや潤滑油の粘度が低いと油膜が薄くなり、ついには固体接触が起こるようになる。このような条件における潤滑を境界潤滑と呼んでいる。自動車における摩擦損失の多くの要素は流体潤滑状態であると言われており2)、流体潤滑現象の理解を深めることはトライボロジーの技術向上に貢献する。

潤滑中の潤滑膜をダイナミックにその場観察

流体潤滑を設計するための数式化されたモデルは既に確立されている4)。しかし、流体潤滑特性は接触界面における潤滑膜の構造に依存しているが、動的な条件下で形成される潤滑膜の構造についてはまだ不明な点が多い。
軸受の油膜は軸受が動いているときにだけ形成され停止すると油膜は消失する。このように、潤滑現象はダイナミックな条件での現象である。加えて、潤滑油は基油と各種の添加剤の混合物であり、潤滑部での成分とその濃度が潤滑特性に関与する。潤滑現象を理解し優れたトライボロジー技術に結びつけるためには、その場観察が欠かせないことが理解できるであろう。

赤外光を含む電磁波を用いる分光法は、大気中、油環境で使用することが可能であり、潤滑状態のその場観察に適している。電磁波は、その波長(エネルギー)からラジオ波、赤外光、可視・紫外光、X線、γ線などが挙げられるが、赤外分光スペクトルは化学結合状態を反映することから、分析対象の化学構造を明らかにするために利用しやすい。
本稿では、筆者らが進めてきた、潤滑中の潤滑膜を顕微 FTIR でダイナミックにその場観察し、潤滑膜の構造を解析した事例を紹介する。一つの IR スペクトルからは、1. 潤滑油膜の厚さ、2. 接触部の圧力、3. せん断による潤滑油分子の配向、4. 添加剤の濃度、5. 分子間相互作用、6. 接触部における反応 などの潤滑特性に関係する油膜構造の物理化学的情報を得ることができる。さらに、観察位置を移動することにより、油膜に関するこれらの二次元情報も得ることができる。
その場観察により、これまで知られていなかった潤滑油膜の動的な条件における構造を明らかにできると期待される。

その場観察の方法

その場観察には、市販の顕微赤外分光装置が用いられている。カセグレン鏡の下に潤滑試験装置を組み込んで用いるため、潤滑試験装置は顕微鏡部に収まる程度の高さで設計する5), 6)
潤滑試験装置が大きい場合、筆者らは顕微鏡の脚部を切断除去して潤滑試験装置と組み合わせている。(Fig.1)

Photograph of a typical ball-on-disk tester with micro-FTIR
Fig.1 顕微鏡の脚部を切断除去して、大型の潤滑試験装置と組み合わせた実例
配置潤滑部を顕微観察するため、潤滑試験装置あるいは分光装置を X–Y–Z ステージ上に配置している。

一般に潤滑試験機として用いられているのは、ボールオンディスク型潤滑試験機であり、鋼球とディスクを接触させ、それぞれ独立に回転する(Fig.2)。接触部に荷重をかけると、点接触であることからボールが弾性変形し直径 100 ~ 200 ミクロンのヘルツ接触部が形成され、接触部の圧力は 1 GPa 程度になる。このような潤滑状態を弾性流体潤滑(Elastohydrodynamic lubrication, EHL)と呼んでいる。

Si disk and Cassegrain mirror
Fig.2 ボールオンディスク試験機と顕微赤外分光測定の概要図
  • 鋼球とディスクの線速度が同じとき、接触部は滑りのない完全ころがり接触となる。
  • 鋼球とディスクの線速度を変えることにより、すべりが発生し潤滑油にせん断を与えることができる。
  • 粘度を持つ潤滑油が接触部に持ち込まれるときの「くさび効果」によって接触部に油膜が形成される。
  • その厚さは潤滑油の流入速度と粘度に依存して 10 nm ~ 1 µm 程度となり、赤外分光法で観察するのに適している。

ディスクには赤外透過窓材であるサファイア、フッ化カルシウムあるいはシリコンが用い、Fig.3 ではシリコンを用いている。また、窓を固定しボールだけ回転させる完全すべり条件であれば、赤外透過波数域が広いダイヤモンドの窓を用いることもできる。窓材は、観察したい波数域、接触条件および用いる潤滑油などにより選択する。

Si disk and Cassegrain mirror
Fig.3 ディスクとしてシリコンを設置した例

EHL(Elastohydrodynamic lubrication; 弾性流体潤滑)油膜の構造

EHL 条件における潤滑特性に関わるのは、潤滑膜の厚さとその構造である。以下、顕微 FTIR で観察される潤滑膜の構造について実例を紹介する。

油膜厚さ

光干渉法を用いれば、ナノメータスケールで EHL 油膜厚さ分布を精密に測定することができる7)。しかし、この方法では厚さだけの情報しか得られず、油膜中の添加剤濃度など化学的な情報を得ることができない。後述(『添加剤濃度』参照)するように、赤外分光法を用いれば基油に含まれる添加剤の濃度を容易に観察することができる。Fig.4 は合成炭化水素油ポリアルファオレフィン(PAO)を用いたときの、ヘルツ接触域における C-H 伸縮振動の IR スペクトルである7)。アパーチャーサイズを 50 µm 角とし、ヘルツ接触中心および中心から入口側に 150 µm および 300 µm の位置におけるスペクトルを示した8)。このスペクトル強度から検量線を用いて油膜厚さを求めた結果を Fig.5 に示した。この様に、観察位置を二次元的に走査することにより、油膜厚さの二次元分布を得ることができる。

IR spectra around EHL contact
Fig.4 EHL 接触部付近の IR スペクトル
3D images of film thickness
Fig.5 IR スペクトルから得られた膜厚の3次元図

トライボロジー会議予稿集 東京2013-5(2013)B5 星・佐藤・滝渡・七尾・八代・森:『顕微赤外分光法によるEHL膜の3Dイメージング』より引用

添加剤濃度

PAO を基油とし、典型的な添加剤であるオレイン酸(OA)を 10 mass% 添加した潤滑油を試料として、EHL 条件で潤滑試験を行った。そのヘルツ接触部の IR スペクトルを Fig.6 に示した9)。C-H 伸縮振動は主として基油に、C=O 伸縮振動は添加したオレイン酸に由来する。ヘルツ接触部入口から出口まで 50 µm 間隔でアパーチャーを移動させてスペクトルを得た。C=OとC‐Hの吸光度の比を添加剤の濃度として、検量線から測定位置における添加剤濃度を得て、その分布を Fig.7 に示した。EHL 領域では油膜中の添加剤濃度が半分ほどに低下することが初めて明らかになった。この現象は基油依存性があり、極性の合成油であるポリプロピレングリコール(PPG)、ポリブチレングリコール(PBG)を基油とすると、オレイン酸の濃度低下は観察されなかった。IR スペクトルから得られる情報として、オレイン酸は極性基油中では単量体として存在している。これはカルボキシル基が基油と極性の相互作用を持つためである。このためオレイン酸は基油と共にヘルツ接触域に導入される。これに対し無極性基油中では、オレイン酸は二量体として存在し、基油との相互作用が弱いためヘルツ接触域に導入されにくいと説明できる。このように、潤滑というダイナミックな条件では潤滑油の化学成分が変化し、潤滑特性に影響を与えることになる。

IR spectrum of oleic acid containing oil.
Fig.6 潤滑油を添加させたオレイン酸の IR スペクトル
Profile of concentration around Hertzian contact.
Fig.7 ヘルツ接触部付近の添加剤の濃度分布

トライボロジスト,44 (1999) 736. 星 靖,下斗米直,佐藤未生,森誠之,『EHL 潤滑における添加剤の濃度変化』より引用

近年、官能基がついた高分子添加剤が摩擦低減に効果があることが報告されている。その理由の一つとして EHL 潤滑油膜中における高分子添加剤の濃縮が挙げられ、顕微 FTIR によるその場観察により、高分子添加剤の濃縮が確認されている10)。また、特殊な環境下でのその場観察の例として、冷凍機の冷媒として用いられるフロン雰囲気での EHL 試験がある11)。冷凍機油を用いた EHL 接触部の潤滑油膜にフロンが溶解していることが、顕微 FTIR のその場観察により確認された。

Jasco Report Vol.62 No.1『顕微 FTIR によるダイナミックな現象のその場観察 ─ 潤滑油膜の構造とトライボロジー特性 ─』では、これらに加えて『面圧』『分子配向』『分子間相互作用』といったパラメータについても解析が行われています。さらに応用事例として、1.グリース 2.クラッチ 3.エマルション 4.親水性ゲル 5.加工ダイス といった様々な潤滑膜のその場観察を行った事例も紹介されています。

文献

1) 中村隆,トライボロジー技術の進展による自動車の省エネ,トライボロジスト,61 (2016), 65.
2) K. Holmberg, P. Andersson, A. Erdemir, Global Energy Consumption due to Friction in Passenger Cars, Tribology International, 47 (2012) 221.
3) トライボロジー学会編,トライボロジーハンドブック,p.49 (2001) 養賢堂.
4) 田中正人,トライボシミュレーションモデルとトライボ設計,トライボロジスト,51 (2006) 223.
5) 星 靖,滝渡幸治,七尾英孝,八代 仁,森 誠之,顕微赤外分光法によるグリース EHL 膜のその場観察,トライボロジスト,60 (2015) 153.
6) P. M. Cann, H. A. Spikes, In-contact IR spectroscopy of hydrocarbon lubricants, Tribol. Letters, 19 (2005) 289.
7) G. J. Johnson, R. Wayte, H. A. Spikes, The measurement and study of very thin lubricant films in concentrated contacts, STLE Tribol. Trans., 34 (1991) 187.
8) 星・佐藤・滝渡・七尾・八代・森:顕微赤外分光法によるEHL膜の3Dイメージング,トライボロジー会議予稿集,東京2013-5 (2013) B5.
9) 星 靖,下斗米直,佐藤未生,森誠之,EHL 潤滑における添加剤の濃度変化,トライボロジスト,44 (1999) 736.
10) R. Goto, K. Onodera, T. Sato, Y. Hoshi, H. Nanao, S. Mori., In situ FTIR observation of the polymer FM enrichment at the EHL contact, ITC Sendai, (2019).
11) S. Tanaka, T. Nakahara, K. Kyogoku, Keiji, Measurements of Two-Dimensional Distribution of Refrigerant Concentration in EHL Film Using Micro FT-IR and Ef fect of Variation of Concentration on Oil Film Thickness, Tribology Letters, 14 (2003) 9.